子どもが癇癪を起こすとき、
そこには解決しなければいけない問題がある、
とにかく早く落ち着かせなきゃ、
そう思うと気持ちばかり急いてしまいます。
泣き叫ぶ我が子を前にすると、話を聴く余裕も簡単に吹き飛んでしまいます。

わが家でも、子どもが帰ってくるなり不機嫌で、
ちょっとしたことで癇癪を起こす日がありました。
玄関に入った瞬間、床に寝ころび、靴も脱がずに駄々をこねる。
その姿に、最初はただ戸惑うばかりでした。

私自身も仕事を終えて帰ってきたばかりで、心も体もすり減っている。
ここから夕飯の支度や片付けが待っていると思うと、焦りばかりが募ります。

毎日のように繰り返されるその光景に、
私は半ば自嘲気味に「地獄絵図」と名前をつけて、やり過ごしていました。

けれど、そんな日々の中で、ふと気づいたことがあります。
もしかしたらこの癇癪は、外で我慢してきた気持ちの出口なのではないか、と。

園や学校で頑張って、
言いたいことを飲み込んで、ルールを守って、
お友だちにも気を遣って過ごしてきた一日の終わりに、
ようやく安心できる場所に帰ってきた。
その途端に、抑えていたものがあふれ出しているのだとしたら―。

怒ることも、わがままを言うことも、
「していい」と思える相手にしかできないことなのかもしれません。
本当は自分の言う通りにしてほしいのではなく、
自分自身を受け止めてもらうことで、
安心したいだけなのではないか。
そう思ったとき、私の中で少し見え方が変わりました。

そこにあるのは、
解決すべき問題ではなく、
受け止めるべき時間なのだと。

それからは、すぐに何かを正そう、とするのではなく、
子どもの話に耳を傾けるようにしました。
すると、不機嫌の奥にある小さな理由にたどり着くことがあります。
友達とのやり取りだったり、
思い通りにいかなかった出来事だったり。
すぐに解決できることばかりではありませんが、
「一緒に考える」ことはできます。

それだけで、子どもの気持ちが少しずつほどけていくのを感じるようになりました。

そんな日々に慣れてくると、
今度はふと、自分自身の中にも似たような存在がいることに気づきます。

自分自身がつらいとき、
どうしようもないとき、
駄々っ子みたいな小さな自分の存在を感じる。

つらくてどうしようもないとき、
どうしたらいいのかわからないのに誰にも打ち明けることさえできないとき、
理由もはっきりしないのに気持ちが荒れてしまうとき。
まるで駄々をこねる子どものような、
小さな自分が、心のどこかで膝を抱えているように感じるのです。

けれど大人になった今、誰かが無条件に受け止めてくれるとは限りません。
社会人、母親、妻としての役割を果たすため、
子どものように素直なむき出しの自分をだすことなんてできない。

いつでも”正解”を教えてくれて、
代わりに何かをしてくれる人もいない。
だからこそ、歯を食いしばってやり過ごそうとしてしまう。

でも、本当はその小さな自分も、
ただ「わかってほしい」と思っているだけなのかもしれません。

だから私は、大人になった今、
自分で自分を甘やかしてあげることにしました。
無理に立て直そうとするのではなく、
「つらいよね」と声をかける。
少し立ち止まることを許す。
その子のために、面倒ごともやってみる。

そうやって、自分の中の子どもを助けるつもりで向き合ってみると、
不思議と大人としての自分の力が、少しだけ湧いてくる気がします。

子どもを受け止める時間は、
そのまま、自分自身を受け止める練習にもなっているのかもしれません。

大人になった自分をどう支えるかについては、次の記事で書いています。